2つの信仰


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水曜日の聖書の学びと祈りの会がありました。

その中で学んだことの一つに「2つのキリスト教」というのがあります。

カトリックとプロテスタントについてではありません。

私も2年前に東京基督教大学理事長の広瀬先生から教えられました。

以下、「贖罪的実践」という広瀬先生のメッセージから引用します。

「神の国を進めることができると考えるキリスト教と、それは努力目標だけで、所詮できないものですと考えるキリスト教がありますが、私は、イエス様がそれができると言われたと考えます。」


1・「それは努力目標だけで、所詮できないものです」

聖書の中には「7を70倍するまで赦しなさい」とか、「あなたの右の頬を打つような者には,左の頬も向けなさい。」など、「とてもできない!」と思うような教えがたくさんあります。

それで私たちは「そうできたら素晴らしいけど、そんなことできないよね。」「だって生身の人間だから。」と考えます。

そうすると、イエス様は私たちに出来もしない「努力目標」を示されただけで、「できなくても仕方ないよね。」で終わっても仕方のない信仰の姿勢を教えられたのでしょうか?


2・「神の国を進めることができると考えるキリスト教」

私にも「そんなの無理だよね。」「できないよね。」と思うことがたくさんあることは事実です。

でも「イエス様は本当に私たちに出来ないことを命令されたんだろうか?」と問われ、「それもそうだな。」と思い直しました。

ちょうど一晩中、漁をしても1匹も魚が捕れなかった時、イエス様がペテロに向かって「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい。」(ルカ5:4)と言われた時の、ペテロの言葉と行動を思い出します。

「『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ、取れませんでした。
でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。」


自分の力や肉の力では到底できないことってたくさんありますが、「でもおことばどおり」という信仰によって、また、行動の熱源である御霊の力をいただくことによって、私もだいぶ「イエス様が言われた言葉は、私にも実践することができるものなのだ」と考えるようになってきました。

「神の国を進めることができる」とは、本当の自分に生かされるだけでなく、自分の周りをも生かす「実践」があります。

そのために私たちは用いられるのであり、ここに本当の生きがいと喜びがあると学びました。

「それは努力目標だけで、所詮できないものです」と告白しながらイエス様に従っていくのか、「みことばは実践することができる」と考え、告白しながら進んでいくのかは、私たちの信仰生活を左右する大きなポイントだと思わされます。



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