詩篇23篇解説「主は私の羊飼い」

2017年は何か新しいことにチャレンジしたいな、と考え中です。


1月1日、今年は元旦が日曜日でした。

元旦礼拝では詩篇23篇より「新しい年も主が私の羊飼い」と題してメッセージが語られました。

昨年の11月くらいから「元旦礼拝にどこから語ったらよいでしょう?」と牧師である主人が祈りながら準備してきたようですが、今年はこの箇所が心に留まったようです。

混迷を深めるこの世界、明日がどうなるかもわからない今の時代にあって、新しい年をどのように迎え、歩んでいったらよいか、不安に思うようなこともあります。

この詩篇23篇は、新しい年も、キリストにある私たちは、良き牧者なる確かなお方、主によって導かれていくその希望と励ましを語っているふさわしい箇所だと心に感じたそうです。


ひつじ年は2015年でした

今年は酉年で、ひつじ年は2015年でした。

その年は、私もヒツジに関する記事を良く書いていました。

羊はよく「人間に似ている性質がある」とか、聖書でも人間に例えられることがあり、
調べるととても面白いです。羊に関することや、詩篇23篇の解説をこの記事に随時、追記していきます。




詩篇23篇

羊飼いの少年だったダビデが歌った詩篇23篇は「敵の前で歌われた歌」と言われています。

絶体絶命のピンチの時にも神に信頼し、ゆとりすら感じられるこの詩篇の内容は、驚くべきものだと思います。

また、スポルジョンによって「詩篇の真珠」とも呼ばれています。



詩篇23篇の背景

旧約聖書の舞台となっている中東には緑が少なく、オアシスのあるところだけに緑の草があるとのことです。(イスラエル、行ったことありませんが、いつか行ってみたいです。)


元旦礼拝のメッセージから、少しご紹介します。


主は私の羊飼い。(ジェホバ・ロイ)(1節前半)


私は、乏しいことがありません。(ジェホバ・イルエ)(1節後半)

この箇所には創世記22章の「アドナイ・イルエ」(主の山の上には備えがある。)と同じ言葉が使われているようです。

「アドナイ」や「ジェホバ」は神を表す同じ意味として使われるからです。



「乏しい」という言葉は、普段、私はあまり使いませんが、

.貧しい

.満足していない
.不足感
.まだ足りない
.満たされていない
.不満がある
などは、日常よく感じてしまう感覚です。

「神様が導いてくださるなら、乏しいことはない」というダビデの詩篇ですが、私にとって暗証するにふさわしい言葉だと感じています。

「乏しい」という感覚の反対は、「満たされている」という感覚かなと思います。

「主」を「私の羊飼い」として従っていく時こそ、本当の満ち足りた心が与えられるものなのだと教えられます。



あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。(4節後半)


なぜ「むちと杖」が慰めなのかというと、これも羊飼いの道具で、「むち」は羊を虐待したり、打ち付けてしつけるためのものではなく、群れから離れそうになる時に引き戻したり、安全な場所へ導くために使われるそうです。

その「むちと杖」は、羊の命を狙うオオカミなどの外敵に対しては「打ち付ける道具」として使われます。

羊飼いがむちと杖を使って外敵を追い払うと、狼たちは逃げ去ります。

羊飼いの「むちと杖」は、羊を守ってくれるものなので、「それが私の慰め」なのです。


「私の敵の前で」・・・別訳では「私を苦しめる者の前にしても」。

少年時代のダビデが大男「ゴリアテ」を倒した時、ダビデはゴリアテよりも無限に大きな神に信頼し、ゴリアテに立ち向かい、勝利した経験がありました。

どんなに敵が強くても、神に信頼するとき、賛美する心があふれてきたのです。




私の敵の前で、
あなたは私のために
食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。(5節)



「油」は「喜び」を表していると言われています。

自分の命を付け狙う「敵の前」でも「食事」ができ、油が注がれ、敵を恐れず喜びがあふれるとは、信仰と聖霊による助けがなければ、なしえないことです。



羊は羊飼いの導きがなければ

羊の習性については、過去の記事でも時々触れていますが、今回は「もし羊飼いの導きがなかったら」という二つの事例をご紹介します。



1・羊は毛を刈らないと危険



羊はモコモコとした毛に覆われたかわいい動物ですが、人間が定期的に毛を刈ってあげなければ大変なことになります。

何年も毛をからないと毛が伸びすぎて、視界が利かなくなり、毛の重さで動きも制限され、命の危険が及ぶほどにもなるのです。

ですから羊は、ちゃんと羊飼いが一匹一匹世話をしてあげて、一匹一匹、一年に一回は毛を刈ってあげなければならないのです。

ニュージーランドの牧場から逃亡し、6年間毛を刈らなかったヒツジはこうなります。


キャプチャ.JPG

画像出典



まんまるちゃんです!

6年刈らないと、毛の重さだけで27キロになってしまったそうです。

そして、目がどこにあるんだか・・・^^;

毛を刈らずに目が見えなくなったら、本当に危険ですよね。




2・羊は自分で考えずに他の羊を見て行動してしまう

羊というのは、群れの中の一匹が異なる動きをすると、他の羊もその一匹にならう習性があるそうです。

さらに、羊の群れの中にはリーダーがおらず、例えば、百匹の羊の群れの中のどれか一匹が右を向いてしまえば、残りの九十九匹も右を向いてしまうのです。

要するに、自分で考えて行動することをしない動物だということです。




何年か前、トルコで実際こんな事件がありました。

ある朝、1500匹ほどの羊の群れが放牧されていたそうです。

すると、その中の一匹が誤って崖から転落したのだそうです。

すると、残りの羊が最初に落ちた羊に倣って、文字通り崖から次々と死のダイブを始めたのです。

その死のダイブによって、450匹ほどの羊が死んだそうです。

残りの羊たちは、すでに落ちた羊がクッションになって助かったと言います。

冗談のような本当のお話しです。

羊という動物がどういう動物か・・・

お世辞にも利口な動物とは言えない動物であること・・・


そうやって、羊という動物のことをよく知りますと、この詩篇23篇で私たち自身をそのような羊にたとえているのは、的を得た人間洞察、そして、自分というものをよく知るダビデのすばらしい歌であることが分かります。






神様に導かれなければ、自分がどこから来て、どこへ向かっているのか、今どこにいるのかさえもわからない。

それは本当に羊飼いに養われ、導かれなければ真の命に生きていけない羊と同じなのだということがよくわかります。


今日、明日、そして今年、どんな出来事がこの世界で、また、私たちの人生で起こるかわかりません。

しかし、どんなことがあっても主が私の羊飼いです。


私たちの羊飼いである主は、私たちの明日のこと、あさってのこともご存知でいてくさっているのです。

羊飼いである私たちの主は、羊がどの道を歩むのが安全であるか、そして、ご自身が羊をどこに導くべきかをよく知っておられるのです。

そのように私たちの人生を導く私たちの神様が私の良き牧者、羊飼いであることを知る時、私たちは安心して明日を迎えることができるのです。


新聖歌318番「きみは我が身の」

詩篇23篇を題材とした讃美歌があります。「きみは我が身の牧者なれば」と言う新聖歌318番の曲です。「神の国とその義を」という賛美の後で詩篇23篇が朗読され、この曲が歌われている動画を見つけました。








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