牧師の妻・自己紹介

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自己紹介

私は15歳まで岩手県で育ちました。父親は牧師で、幼い時から教会で育ちました。

恵まれた環境にはあったものの、幼い頃の私は、自分自身にも容姿にも自信がなく、暗くて子供らしくありませんでした。保育園の頃から「私はかわいくない子供だから、かわいがられるはずがない。」と信じて疑わないような子どもでした。

子どもの頃から目が悪く、保育園の頃からメガネをかけていたこともあり、病院で看護婦さんを見て、「私も大きくなったら看護婦さんになりたい。」と言っていました。

すると母が「看護婦さんもいいけど、いくらからだが健康でも、心が弱ってしまう人もいるし、重い病気があっても信仰を持って前向きに生きている人もいるよ。」という話をしてくれました。
その時は、「たしかにそうだなあ。」と思い、心に留めていました。


私が小学校の3年生くらいの時、教会に珍しいお客さまをお招きしました。『田原米子さん』という方です。米子さんの生涯は映画にもなり、全国各地で講演をなさり、イエス様のことを伝えておられました。

米子さんは、高校生の頃、大好きだったお母さんを亡くし、自暴自棄になり、とうとう電車に身を投げて自殺を図ります。

命は助かったものの、右手の指三本だけを残し、左腕と、両足を太もものところから切断されてしまいました。『こんなことになってしまって、どうして死なせてくれなかったの!?』と、それからも薬をこっそり溜めておいて、いつか本当に死んでしまおうと思っていたそうです。

その米子さんも、イエス様の愛を伝えてくれた人に出会い、本当に明るく、前向きな女性に変えられました。

義足をはめて、聖書の講演のために私たちの教会にも来て下さったのです。その姿を実際に見せていただいた私は、子供ながら非常に感動した事を鮮明に覚えています。

お別れの時、米子さんは、私の母にこう言って帰られたそうです。『あの、真ん中の子(私)を特にかわいがってあげてくださいね。』。そして、三本の指で折ったワイン色の折鶴をひとつ、私のためにと置いていって下さいました。大人が両手を使っても、なかなかこうは折れないというほど、折り目のきちんと合った、見事な折鶴でした。

『特にかわいがってあげてくださいね。』と言われた米子さんを、『私のことを分かってくれる人だ。』と思い、辛いことや悲しいことがあった時、何度か手紙を書きました。お忙しいのにお返事も頂き、『お祈りしていますよ。』と書かれていました。

そのうち引越しをされたようで、『分かってくれる』と思っていた米子さんとも連絡がつかなくなってしまいました。


不登校

私が小学校5~6年の頃、短期間ではあったが「頭が痛い。」「おなかが痛い。」と言っては学校を休むようになりました。当時ではクラスにほとんどいなかった「不登校」。登校しても、保健室や職員室で過ごしたり、時には校長室への呼び出しもありました。

その頃、父は教会の仕事の他に裁判の原告の一人として活動しており、政教分離を守る働きを務めていました。信教の自由を守る働きについて、遺書を用意して、命がけでその働きを続けていました。

家には度々、新聞記者やお客さんが来ていて、電話も頻繁にあり、普通ではない家の雰囲気を感じて育ったように思います。

教会では皆さんが心配され、「その働きをするなら、牧師を辞めて下さい。」と反対を受けたこともありました。「牧師をするのか、社会活動をするのか。」と問われ、教会にも家庭にも緊張感があり、神の御心と確信し、牧師も活動も止めなかった父でしたが、両親には苦悩の日々だった事と思います。

私たち子供は、何のことか分からずに、父が新聞やテレビに出ると、ただ喜んでいました。


「神もしわれらの味方なれば」

 ずっと後になって、そういえば家の居間の良く見えるところに、筆字の短冊がかけてあったのを思い出しました。その頃、知人が送ってきた御言葉だそうです。

「神、もし我らの味方なれば、誰か我らに敵せんや。」ローマ8:31

 これは、両親の信仰の核と言うべき御言葉で、当時はまさに、この御言葉が慰めであり、御言葉を握って無我夢中で働いてきたのだと思います。

区会費から神社への出費があることに反対したことから始まり、市へ、県へ意見してきた父。1対大多数の、負け戦が決まりきっているような働きかけでした。

しかし、この草の根のような働きが広がり、協力者が加えられながら、市が改め、県が改めました。誰にも分からなかった訴訟の結末も、「実質勝訴」という結果でした。

危険から守られたのみならず、神様がこの働きを祝福して下さったのです。

それ以来、父は2月11日の「信教の自由を守る日」には各地に招かれ、講師として当時の経験を講演したりするようにりました。


祖父との同居
 
私が小学生の頃、父方の祖父と同居することになりました。お酒を飲んだり、相撲を見たりしている未信者の祖父は、全く異色の存在で、祖父はおとなしいけれど、わがままな人だったようです。

食事の文句を言ったり、生活のお世話をした母がよく心を痛めていました。

学校から帰ると、母が泣いていたこともありました。よく考えれば、父の崩壊家庭の原因も、多くは祖父にあったようです。父の姉弟もみな、祖父の老後の世話をすることに抵抗があったようです。

しかし、父は長男でもありましたが、それ以上に「あなたの父と母を敬え。」という聖書の言葉に従って、祖父を引き取りました。たとい尊敬できなくても、信仰をもって尽くそうとしている姿を、私はじっと見ていました。母も、与えられた期間、最後までお世話を続けました。

信仰を持っていなかった祖父でしたが、後任の牧師に導かれ、人生の終わりにイエスさまを信じて天に召されていきました。


牧師の家庭

家が教会だと、いろいろな人が出入りし、楽しいこともありましたが、天真爛漫ではいられなかったこともありました。

だまされて連れて来られたと思われるフィリピン人の女性が、家に来て泣いていたことがあり、小さい私の妹が「かわいそうだ。」と言って一緒に泣いていたことがありました。

また求道中の婦人をかくまっていたこともあり、逆恨みをしたご主人が、のこぎりを持って出て行ったと連絡があり、「ここに来るかもしれないから。」と、いつでも逃げられるように、裏口に靴を置き、洋服を着たまま寝たこともありました。


信仰の決心

中学に入る前、私は父の礼拝説教を聞く中で、イエス・キリストを信じる決心をしました。

父は、中学3年の時、家が破産し、夜逃げをした経験があります。高校2年生の時に最愛のお母さんを亡くしました。病床の中、39歳の若いお母さんは、お医者さんに向かってこう言ったそうです。

「先生、私だけは助けて!子供を残して、まだ死ねないんだから。」

父は5人兄弟の長男で、高校生だった父に向かって、お母さんは「息子か。楽しみにしているんだから。」と言ったそうです。崩壊家庭に育った父が悪に走らなかったのは、この時のお母さんの言葉があったからだといいます。

その時の事と、イエス・キリストの十字架の話がその日の説教でした。

私は二つのことを考えました。一つは「私も、このまま何となく生きていくなら、必ず「まだ死ねない!」と言うだろう。」

もう一つは、「イエス・キリストというお方は、私の罪のために十字架にかかって下さった。身代わりとなって死んで下さったほどに私を愛し、『あなたの事を楽しみにしているんだから。期待しているんだから。』と言って下さる!このお方を信じていこう!」

その年、中学一年生のクリスマスにバプテスマ(洗礼)を受けることとなりました。


洗礼を受けたけれど…

クリスチャンとなった私は、少しずつ明るくなり、友達も増えていました。千人を越す大きな中学校で、一番目立つグループの子達とも友達になり、当時、校内暴力やいじめが騒がれていましたが、私はいじめられることもなく、人間関係もうまくいっていました。

教会にも友達がたくさん来てくれました。ところが、友達に流されてしまい、私は悪いと分かっているような事もするようになっていきました。

そして、「私は、もともといい人ではないし、いい人にもなり得ない。」と開き直るようになり、普通にいい子でいるよりも、悪い子であるほうが自分らしいと考えました。

「模範的クリスチャン」と思われる両親への反発もあったように思います。

しかし、近隣で知り合いの牧師の子供が非行に走り、親が牧師を辞めさせられた話を聞き、「親の仕事まで奪っては、まずい。」と、中途半端に不良のような生活をし始めました。

一方で、「私はクリスチャンなのに。」と自分を責める気持ちもあり、「変われるものなら、神の子供らしく変えてもらいたい。」という気持ちもあったなかで、中学3年の時、富山県高岡市の、牧師のいない小さな教会へ行く事を告げられ、「これを機会に、自分は変われるかもしれない。」と思いました。

高校生になると同時に富山での新しい生活が始まり、慣れない言葉と文化に戸惑いを覚えました。ずっといると思っていた岩手県の友達から離れ、自分は岩手県の人ではなくなり、富山県の人にもなりきれない、という孤立感に悩まされました。

そして、またも目立つような友達と仲良くなり、学校をサボったり、悪いこともするようになって、自分で苦しむようになりました。

また、学校の先生が「キリスト教は、数ある宗教の一つ」と言われ、自分の信仰が単なる思い込みだったのではないか、と信仰を疑うようになってしまいました。

「牧師の子だからと言って、信仰を鵜呑みにしたくない。」と思い、「神様なんか、本当はいないんだ。」と考えてみることにしました。すると、すべてのことが本当に虚しく、何もかも嫌になりました。

神様が本当は存在しないのなら、私は偶然に生まれ、ただ、死んでいくだけの存在。死んだ後、天国も地獄もないとしたら、生きている間だけが全て。

「それなら、悪いことをしたっていいじゃないか。」と、心の思うままにしてみたけれど、「自分の望むことをしてみてもこんなものか。」「世の中を楽しもうといっても、こんなものか。」と絶望感だけが残りました。

やはり私は、神様がいなければ生きていくことすら出来ない、存在することすら出来ないと気づいたのです。

変わりたいと思っても、なかなか変わることが出来ない私は、悩んでいました。


献身の決心

「もう、神様は赦してくれないだろう。」と、途方に暮れた気持ちで、高校3年になる年、春のバイブルキャンプに参加し、聖書のメッセージを聞く機会が与えられました。

十字架にかかろうとしているイエス様を見捨て、「そんな人は、知らない。」と3度も裏切ってしまった弟子、ペテロのお話。

イエス様がペテロに、これから裏切ろうとしていることも承知で「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われた箇所です。

私は愚かな者で、長い間、神様を悲しませ、両親を悲しませてきました。しかし、弱さや欠点を承知の上で、イエス様はなおも愛し、期待して下さっていると知ったのです。

「これからは、自分のためではなく、このお方のために生きよう。」と決心しました。

そして、千葉県の「東京基督教大学・神学部・神学科」で4年間学び、卒業後は父が牧師をしている「高岡バプテスト教会」で児童伝道主事として4年間。その後、内灘聖書教会『研修スタッフ』として1年間奉仕する恵みに預かりました。

その間に出会った主人と結婚し、無牧の「額(ぬか)聖書教会」で5年間奉仕し、2006年9月から「泉野聖書教会」へ異動、現在に至っています。


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