小説「沈黙」論(論文)小畑進


映画「沈黙」が公開され、感想もずいぶん出ているようですね。

そして、見た人の感想も様々…。

クリスチャンの中でも、意見や感想が分かれる内容の作品です。

「沈黙~サイレンス~」は、金沢ではあまり長い期間上映されないような感じなので、どこかで時間を作らないと見に行けません。

いつにしようか・・・。


本当は映画を見る前に「沈黙」の原作を読み返したいと思っていたのですが、読むのはやめました^^;


代わりに東京基督教大学の教授だった故・小畑進牧師が書いた論文が手に入りました。


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ぱらっと読んだだけですが、私にとっては遠藤周作の原作よりも意味があると感じたので、原作を読む気はすっかり失せました。

映画は見てきたいと願っていますが…。


昨日の東京基督教大学・支援会のために来てくださった中澤秀一先生が、東京基督神学校長の山口陽一先生より受け取り、届けてくださいました。感謝。

普通は手に入らない小畑進先生の論文が手に入り、レア感もあって喜んでいましたが、その後、東京基督教大学が論文を公開し、誰でも読めるようにアップされています。


東京基督教大学ホームページの文章より

「マーティン・スコセッシ監督の「沈黙-サイレンス-」の全国ロードショーが、1月21日から始まり話題となっています。
本学の前身校である東京基督神学校の名誉教授、故小畑進先生の「遠藤周作著小説『沈黙』論」(『基督神学』4号、1988年)は、プロテスタント神学の立場から書かれた出色の「沈黙」論であると思います。
フィレイラの「顕偽録」から説き起こし、3つの問題点(1、神への忠誠か隣人への愛情か 2、強者に対する弱者の救い如何 3、日本の体質は基督教に向くか)に聖書から応答する小畑氏は、結論のところで以下のように言っています。
 「題名の「沈黙」とは、沈黙せる神の「沈黙」ではなくて、自分が語るために神に強いた沈黙の「沈黙」ではありませんでしたか。むしろ題名を「饒舌(じょうぜつ・・・よくしゃべる、おしゃべり)」にしたら、とも思うのですが。」





小畑進先生のプロフィール

1928年11月9日生まれ - 2009年11月26日死去。
早稲田大学大学院文学研究科卒業、大正大学仏教学科卒業。
キリスト教の信仰を持つ前に比叡山で修行し、僧侶の資格を持っていた。
現東京基督神学校卒業、同神学校の名誉教授、東京基督教大学でも講師だった。

・・・


小畑先生は、私も在学中に少しだけ習いましたが、極度に視力が悪かったようで、本はいつも虫眼鏡を使って読んでいました。

駅前で、仲の良かった男子学生だと思って蹴りを入れたら、全く違う人だったという、おちゃめなエピソードが残っています。

あとは、明るい性格の学生を捕まえて「○○君、君は明るすぎる。月はな、影があるから美しいんだ。」と言った話も、確か小畑先生のエピソードだったような…。




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この記事へのコメント

  • 堀田征児

    はじめまして。
    小畑氏の論文を拝見しました。かなり調べれられており、批判は最もだと思うところもございます。
    ただ一方で山口氏は何故ご自身のお言葉で『沈黙ーSilence』語られないのか不思議です。
    カトリック・プロテスタントをと問わず批判があってもいい、と私は考えています。
    やはりカトリック教徒の遠藤・スコセッシの考えは異端ではあります。
    でも、批判が殆どないのです。
    私はノンクリスチャンですが数多の聖職者が批判異見を言わないのはタブーなのかと思う次第です。
    新潟福音教会で山口氏も日曜礼拝で語っています。
    残念なことに同じ東京基督教大学を出られた笹川師の「福音主義派からみた『沈黙』」は完全に原作者の思想を無視した曲解です。
    のちに閲覧不可能になりました。

    それを踏まえた上で、ヒトラーの暗殺を企て処刑された古プロイセン合同福音主義教会の神学者ディートリヒ・ボンヘッファーがおられます。
    聖書が「裏切っても許す」とは言っていないと福音主義派の見解は、私からすれば聖書は「悪人なら殺してもいい」とは書いてありません。
    では、神学者ディートリヒ・ボンヘッファーの行為はどうなのでしょうか?

    フェレイラやロドリゴは苦しむ切支丹のたちのため、極限のなかで棄教という選択をせまられました。
    神学者ディートリッヒはホロコーストに連れて行かれるユダヤ人、ポーランド人・・・数多の迫害される人々をみてついに暗殺計画に加わりました。
    当然、自己矛盾を見つめ主に対して心の中で叫んだのかもしれません。
    司祭と神学者、彼等の心理や動機には違いがあるのでしょうか?
    2017年06月21日 00:35
  • 牧師の妻



    >堀田征児さん

    はじめまして。コメントをありがとうございます。
    多くの牧師先生方が「沈黙」について語られなかったのは、「殉教」というテーマで自分が自信を持って「殉教できます!」とはなかなか言いにくいことと、この小説を読んだり、映画を見たりした信徒の中には「踏み絵を踏んでもいいんだ、誰かを助けるためなら棄教してもいいんだ。」というところに安心感を得ている人が少なからずいることに配慮してのことかもしれないと思います。

    また、自分の考えを押し付けることはしたくないと考え、あえて「自分で考えてみるように」とのお考えかもしれません。

    Youtube拝見させていただきました。一部しか聞くことはできないようですが、聞いてみたところ、小畑氏と同じような結論でしたね?

    私は、新潟の牧師先生が伝えようとしておられたことがよくわかる気がしましたが…。
    2017年06月24日 23:34

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