主は命を与えませり讃美歌332番



遠藤周作の「沈黙」について考えながら、心に思い浮かんできた讃美歌がありました。

「主は命を」讃美歌332番



クリスチャンであっても、恵まれること、与えられること、助けられることなど、神様に「してもらうこと」や「ご利益」に期待し、信仰生活を送る場合があります。

私自身も、放っておけば「恵まれること」「神様に(私の益のために)働いてもらうこと」を、ついつい期待し、その比重が大きくなることがあります。

けれども、そんな時にこの讃美歌が思い起こされ、「では、あなたは何を主に捧げるんですか?」「あなたは主のために何をしますか?」と問われることがあります。


「主は命を」讃美歌332番 歌詞

1・主は命を与えませり
主は血潮を流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
我何をなして 主に報いし

2・主は御父のもとを離れ
わびしき世に住みたまえり
かくも我がために栄えを捨つ
われは主のために何を捨てし

3・主は赦しと慈しみと
救いをもて下りませり
豊けき賜物 身にぞあまる
ただ身と魂とを捧げまつらん



献身の決心をしたときのこと

私が献身の決心をしたのは、高校3年になる年の春のバイブルキャンプで、ペテロが3回イエス様を「知らない」と否定した聖書の箇所からのメッセージでした。

神様は、私の弱さも罪もすべてご存知の上で、「あなたはわたしに従いますか?」と問われ、私は、「弱いなら弱いままでもいいから、とにかく従って行こう!」と決心したのでした。

それとはまた別に高校生の時、バイブルキャンプで講師の先生が「神様に生涯を捧げ、献身したい女性は立ってください。」と言われ、私もその場で立ち上がりました。

しかし、その先生は、「辱めを受けるんですよ。それでもいいんですか?」と言われました。

その時は、まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、ぎょっとして、「…いや、そんなつもりでは…。」という気持ちになったことを覚えています。

その時、キリストに従うということは、楽しいこと、感謝なことばかりでなく、したくないこと、苦しみ、悩みを伴う厳しい道でもあるのだということを何となく予告・宣告されたような気がして、心にとめておいたのでした。





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