ビートたけしさんに学ぶ「失敗した芸能人はとりあえず外せ」の風潮批判

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2月に気になった記事がありましたが、記事に取り上げる機会を逃していました。

以下は、記事の書き出し部分です。

昨年から今年にかけ、様々な芸能人がスキャンダルを起こして謹慎やテレビ・CMなどへの活動休止を余儀なくされた。
不倫騒動が発覚したベッキー、経歴詐称騒動のショーンK(ショーン・マクアードル川上)……。
タレントたちが次々と姿を消す状況について、ビートたけし氏は著書『テレビじゃ言えない』の中でこう分析している。…


「別に犯罪行為をやったわけでもないタレントがスキャンダルで叩かれて、世間から「一発退場」になってしまう」(ビートたけしさんの言葉より)ことについて、「不倫」について「寛容である」だけだと少し違ってきてしまうのですが、「寛容さがまったくない。すごく居心地の悪い監視社会だよ。」ということに私も共感する部分がありました。


世の中が「たった1回の失敗も許されない社会」になってるのは本当に怖い。


そうビートたけしさんが語ることに、私も大きくうなずきました。

「…いつの間にか学校も「減点主義」になっているから、こんな悲劇が起こっちまうんじゃないか。
 自分たちに「責任」が及ばないように、「とりあえず臭いものには蓋をする」「一度失敗したヤツは念のため外しとく」ってのは、本当に残酷だってことを知るべきだよ。」
※ビートたけし/著『テレビじゃ言えない』(小学館新書)より


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日曜日の礼拝説教で語られた「放蕩息子」のたとえ話の事の発端は、イエスが取税人や罪深いとされた人たちを受け入れ、一緒に食事をしたことでした。

そのことについて、パリサイ人や律法学者たちはつぶやいて「この人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする。」と言いました。

昔も今も、問題を起こす人、嫌われている人、面倒な人には「関わりたくない。」と考え、みなこぞって離れて行ってしまうという現象は変わらないようです。

けれども、そのような人たちから「離れていく」ことが「正しいことなのか?」「神が私たちに願っていることなのか?」と考えてみると、そうではないと思います。

むしろ「一緒にいること」、「この人と私は仲間だ」と公言するかのように親しく「一緒に食事をする」というのが、イエス様が私たちに示した模範なのではないかと思うのです。


聖書の中の失敗した人たち

聖書の中に、「失敗した人」のお話は数多く出ています。

良いことや良い人だけのことが書かれているのではなく、信仰者であっても失敗すること、どんな失敗をしたのかも書かれています。

ダビデ王は、ウリヤの妻を自分の妻にしようとして、ウリヤを激戦地へ行かせ、死なせました。

ダビデがウリヤの妻バテシェバによって生まれた子が「ソロモン王」です。

ダビデは「不倫」と「殺人」という大きな罪を犯しましたが、悔い改め、神に立ち返ったので、神はダビデを見離しませんでした。

祝福だけでなく、苦しみも多い人生でしたが、ダビデは神を慕い求めることをやめず、神もまたダビデを見捨てなかったことに慰めを受ける人はたくさんいらっしゃるのではないかと思います。


イエスの弟子「ペテロ」は、イエスを3度「そんな人は知らない」と言って裏切りました。

けれども、最後まで信仰を持ち続け、福音を宣べ伝える人に変えられました。


これらの失敗した信仰者が「一発退場」にならず、その後ますます神との関係を深め、変えられ、強められてきたことを見るとき、私たちは本当に励まされます。


「失敗」や「挫折」を経験しない人はいないでしょうが、「失敗」や「挫折」の経験が少ない人だと、「自分はそんなヘマはしない。」と思ってしまいがちなのかもしれません。

確かに、私たちは失敗するし、挫折もするし、ヘマもしますが、そんな時に見捨てないで隣にいてくれる人がいたら、どんなにありがたく、どんなにうれしいことでしょうか。


「姦淫の現場で捕えられた女」(ヨハネの福音書7:53~8:11)

イエスを試し、罠に陥れようと考えた律法学者とパリサイ人は、姦淫の現場で捕えられた一人の女性を連れてきて、わざわざ真ん中に置いてから、イエスに問いました。

「モーセは律法の中で、こういう女を石打にするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(ヨハネ8:5)

そして問い続けてやめなかったため、「あなた方のうちで罪のない者(新共同訳:罪を犯したことのない者)が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)と答えられました。


罪を犯した人に対して「いいよ、いいよ。」と、なかったことにしてしまうのは義ではないし、難しい時も多々あるのですが、どんなことも「もし自分だったら?」と考えるときに、寛容な「あわれみ」の心が湧いてきます。

また、どう対処して良いのかわからないとき、難しい場面の時には「イエス様だったら、どうするだろうか?」と考えると、おのずと取るべき態度が示されてくる時があります。

罪に定められず、死の危険から守っていただいたこの女性は、どんなに感謝してその後の人生を歩んだことでしょうか。



ビートたけしさんの記事は、どんなに人気者で、もてはやされていた人であっても「失敗した芸能人はとりあえず外せ」という社会やマスコミ、テレビ局などへの風潮批判でしたが、
このことは「世の中は変わりやすいものだ。」と教えられると同時に、実は教会やクリスチャンの中にもあることだと感じています。

「罪」について、よく教えられているクリスチャンは、悪いことや「罪」に関してとても敏感で、
「やばい」と思う人や事項からは離れようとします。

それはそれで、きよさを保ち、自分を守る「知恵」であるとも言えるのですが、たとえどんな罪を犯した人だって、潮が引いていくように人々が離れて行ったら「淋しいだろうな。」と思うことがあります。


「姦淫の現場で捕えられた女」について調べていた時、「その近くにいたイエス様は、(姦淫の)相手の男性だと思われたかもしれないリスクを負っていた。」と書かれていた文章を読み、「なるほど。」と思いました。

その女性も逃げ出さなかったけれども、イエス様も「この女性と関わりがあると思われたくない。」と言って離れることをなさいませんでした。

自分が何か失敗して、大勢の人が「敵」であったり離れて行ったとしても、たった一人でも隣にいて味方でいてくれたら、どんなに慰められるでしょう。

自分にもそんな経験があったような気がするのです。


「罪を犯しても全く構わない」とか、そんなことではありませんが、「(失敗した芸能人を)続投させるテレビ局があったっていいと思うんだけどな。」とのビートたけしさんの言葉に、
「もし誰かが一人ぼっちにさせられている状況があったら、クリスチャンの私たちこそ、その人のそばにいてあげられる存在であることができたら・・・。」と願わされました。

神は、私たちを「正しいから」愛して下さったのではなく、失敗することも、挫折することも百も承知の上で愛して下さり、そんな私たちを見捨てないのだから…。 



「その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。」(第二コリント人への手紙2:6~8)



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