他人に迷惑をかけないで生きていけますか?

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先日、フェイスブックのお友達がシェアしていた記事に、興味深い記事を見つけました。

都会でよくあることとして何度か私も読んだことがある「ラッシュ時のベビーカー問題」なのですが、記事中の次の文章に目が留まりました。


記事曰く、駅員の親切心は仕事上の義務感によるものに過ぎない、日本では「他人に迷惑を掛けないこと」の教育が重視されているが、裏を返せば「他人は、自分に対して迷惑を掛けるようなことをするなと思っている」とのこと。




確かに、私たちは「他人に迷惑をかけるな」と教えられ、自分の子供にもそのように教えているだろうと思います。

でも「裏を返せば」の部分で、「自分はそのように教えられてきたし、誰にも迷惑はかけていない。」と考えるなら、「自分は誰にも迷惑をかけていないんだから、誰も自分に迷惑をかけてくれるな!」というメッセージを発していることになりかねないのだな、と考えさせられました。

「人に迷惑をかける人」というのは、迷惑がられるため、嫌われる傾向にあります。

けれど、「誰にも迷惑をかけないで生きていられる人って、いるんでしょうか?」


生まれた時から両親の世話がなければ生きることはできず、歳を取れば介護されなければ生きていけないことになります。

要介護の人ではなくても、人は必ず誰かに助けられ、誰かの世話になっているからこそ、今生きていられると言えます。



この記事をさらにシェアしたところ、コメントをいただきました。

「うろ覚えですが、ユダヤの言葉で「人間は誰でも他者に迷惑をかける存在である」といったことを聞いたことがあります。だから、他者の迷惑は許容しましょうと。・・・」


本当にその通りだと思いました。

「お互い様」という気持ちがなければ、「自分は迷惑を一切かけていない。だから誰にも迷惑をかけられる筋合いはない。」という考え方になってしまいます。

これって、「他人に迷惑をかけない」という教育の裏にある日本の国民性ではないかな、と気づかされました。

「罪」という意識に関してもそうかもしれません。

「自分は警察に捕まるような犯罪は犯していない。キリスト教では人を罪びと呼ばわりするから、気分が悪い。」という方も少なくないようです。



さらに頂いたコメントを紹介します。

「自己責任」なんていうと、西洋的なことばに聞こえますが、実際にはそうでなく、「他人に迷惑をかけるな」という意識は、江戸時代的にキリシタン摘発のために向こう三軒両隣が相互監視関係にあったことの名残ではないかと思っているんです。


こちらも「なるほど。」と思いました。

私も以前に「自己責任という言葉は国を滅ぼす」という記事を書いたことがありました。

上記の台湾人女性がラッシュ時にベビーカーを持参した際に感じたことは、「ベビーカーを運ぶことで他人に迷惑が掛からないよう」自分で何とかしなければならない、つまり「自己責任だから。」という見方が強いように思いました。

「しばしば外国人から指摘される日本人の「冷たさ」について、日本人としてもう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。」という問いかけで結ばれているこの記事ですが、
「誰にも迷惑をかけないで生きていられる人って、いるんでしょうか?」ということを考えるきっかけになればいいな、と思います。


「迷惑をかける人」というのは、つまり「日本の社会においては」生活保護を受けている人や障碍者、高齢者などの介護や保護を必要とする立場の「弱者」に向けられるもので、すでにいろいろな形になって表れています。(もちろん、上記のような方が迷惑をかける人と言っているのではありません。日本の社会において、そのようにとらえている人もいらっしゃることを書いています。)

・「生活保護なめんな」関連はじめ、貧困家庭に対する冷ややかな見方
・相模原障害者施設殺傷事件
・「若者の迷惑にしかならない老人は安楽死するのが一番いい」という主張



この流れで行くと「冷たい社会」になってしまう、実はとても危険なものを私たちは「常識」や「教育」の中から知らずに受け取っているように思わされました。



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