「世の光、地の塩」義父の信仰


私たちが結婚した時、主人の母はクリスチャンになって数年がたっていましたが、主人の父は信仰を持っていませんでした。

結婚するときには「義理の両親となる人たちと、仲よくうまくできるだろうか?」ということはほとんど考えないで結婚しました。

教会の牧師先生に「中西さんのご両親ですよ。」と紹介された時、主人の父が「私が言うのもなんですが、優しい息子です。」と言われたことを覚えています。

「この結婚は、神様からの確かな導きがある。」と確信していたものの、「本当にこの人と結婚していいのか?」という気持ちもあった中、「ああ、やっぱりこの人なんだ。」とさらに神様からの後押しをいただいたように思い、嬉しく思ったのが昨日のことのように思い出されます。

その後、私たちの婚約式の日、両親が新聞にも載るような大きな交通事故に遭い、信号無視をした学生が乗っている車がぶつかってきたようでしたが、車はめちゃめちゃになっても、命は守られ、奇跡的に誰もけがを負う人はいませんでした。

その時に義父は、義母や息子が信じているキリスト教が教える神様がいらっしゃることを感じ、讃美歌を思い出したそうです。

讃美歌405番「神ともにいまして」という曲です。





讃美歌だと3番までのようですが、義父が思い出したのは同じ曲で歌詞が違う聖歌348番
「今去りゆくなれを」という曲でした。

その3番の歌詞です。

「思わぬ出来事に みまわるる時も
 ちからのみ腕はいち早く伸ばされん
 またおう日まで またおう日まで
 み神つねに なが身と共にあれ」


その後、私たちが結婚した年のクリスマスに洗礼を受けた義父ですが、教会の役員になったり、「お祈りは苦手やねん。」と言いながらも、一緒にお祈りしたりするようになりました。

昨年、義父の両親を2週間のうちに父、母共に送り、仏式で親族の中で「自分はクリスチャンだから、クリスチャンらしく振舞わなければ。」と思った話を聞かせてくれました。

焼香はせず、手を合わせることはしないで丁寧に頭を下げてきた、と話してくれました。

みんな仏教の親族の中で、自分がどのような態度をとるか、考えさせられたと思いますが、「自分はクリスチャンだから。」と義母とともに、そのような姿勢を取ったそうです。

そのことを話している義父の表情は確信に満ちていて、「クリスチャンとして立派な態度をとることができた。」と、誇らしいような表情にも見えました。

義理の両親は、普段から親族を良く助けたり、親族との関係が良いので、葬儀で仏式のみんなと同じ態度を取らなかったことを言う人は誰もいなかったようです。

 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイの福音書5章13~16節



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